女性が働きながら子供を産んで育てることに対しての社会的な障害や壁は現在、急ピッチで取り壊されつつあり、これはもう、北京オリンピックのために有無を言わさず行われた再開発やバアグラの認可ほどの速度なのだ。できちゃった婚は今や、恥ずかしいどころか一家の誉れである。「孫の顔というものを、もしかしたら一生見られないかもしれない」とリアルに心配していた両親は、何よりも一番ホッとしているはずだ。
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ワーキングマザーは依然として大変なことに変わりはないとはいえ、世間の風潮としてそれに異を唱えることはもはや、人種差別主義者に近い烙印を押されてしまう。ほんの少し前まで「仕事を取るか、子供を取るかはっきりしろ」「ママが家にいないなんて、子供がかわいそう」などと言われ続けて、思い切り肩身の狭かった先達たちは今のこの手の平を返したような社会風潮の変化をどうとらえているんですかねぇ。そういう世の中のムードが変化しただけでも、今の女性はずいぶんと恵まれて来ていると思う。
「こんなんだったら、産んでればよかったぜ」
結婚していながら、当時のノーフューチャーな女性の労働環境と子供に興味がなかったことと、あるいは、「女は子供を作って一人前」みたいな風潮に反発し(ちょっとは、いや、かなり‥‥)積極的に子供作り努力をしなかった結果、ノーキッズの私でも、さすがこんな愚痴も出てくる。
そうはいっても、現状の自分にはそれほど後悔はない。とかく隣の芝生は青く見えるのが常だし、私と同様、多くの小無し、および負け犬さんたちの多くは、ニッポンのリアル風潮下では結婚によってあきらめざるを得ない、自由気ままさと消費の方に現実的にはメリットを感じているからである。
たとえば、同窓会の二次会で専業主婦が目をキラキラさせながら、一家で正月ハワイに行ってきた、などと自慢話をおっぱじめた場合、負け犬さんたちの多くはそれに相槌を打ちながらも、「そういえば、この間の旅行はモロッコでリムジンチャーターしてオアシス巡りをしたっけ」とまるで、「平民はパンがないのなら、お菓子をお食べ!」とのたまったマリー・アントワネット気分でいることも多いのだから!
しかしながら、その密かな優越感がどうも、最近はガラガラと崩壊…‥。その大きな理由が「子供をダシに遊ぶ女」の出現だ。
子供がいることで諦めなければならい世界は、20年前までは広大だった。しかし、現在、それは恐ろしい勢いで規模縮小している。子育ては親に任せっぱなしで遊び回ってばかりの娘は極悪人のように思われていたものが、「フランスをはじめとして、先進国の事情はおしなべてそんな感じ」という情報も入り、皆、その点については相当、寛大になっている。「早いこと産んじゃいなさい。私が責任を持って育てるから」というおばあちゃんの心情はリアルな時代の気分である。
その一方で、今度は「子供がいないがために、諦めなければいけない楽しい世界」の方がはっきりと見えてきたといっていい。アウトドアキャンプにバーベキュー、ディズニーランドにスタジオジプリ映画、大宮の鉄道博物館に、日本科学未来館などなど、子供がいてこそ、存分に楽しめるような“遊び”がこのところ至る所で目に付くようになってきたのだ。
特に近年はエコブーム。次世代の子供たちにこそ食育をはじめとしてエコ啓蒙を、ということで、エコ関連イベントやアトラクションのほとんどは子供が大きくフィーチャーされている。
ちょっと前までは、家族サービスとは、嫌々とまではいかなくとも、独身者が謳歌出来る様々なイベントやアメニティーよりも快楽は低めであり、ハレというよりもケの行動だった。それゆえにお父さんは子供連れの遊園地よりも、会社の接待ゴルフ+飲み会の方をいそいそと選択したものだったのだが、今、それらを本気で楽しんでいるのはパパやママの方である。
これは何を意味するかと言えば、子持ち女性は独身時代と同様の遊びを捨てず、さらにそこに子供という存在によって参加できる新たな楽しみを享受できる、というリッチな現実だ。その昔、海に行ったとき大型犬と一緒にフリスビーをしているカップルがいて、「ああ、海の近くに住むならば必需品だな」と思ったことがあったが、
子供とともにバーベキューや川遊びにいそしんだり、野外レイヴで踊る母と子なんぞを見ると、ついその発言に子供を重ねてしまう不謹慎な自分がいる。「平民はパンがないのなら、お菓子をお食べ!」のマリー・アントワネット気分を味わうのは今度は子持ち女の方。子供いると、それをダシに面白く世界を遊べるというのは本当のことなのだ。
クリエイティブな遊びで埋まる、ある主婦の日常
友人ひとり、M代。彼女は私の小学校の同級生のひとりで、現在、40代後半。高校二年生の娘と小学五年生の息子がいる専業主婦だ。ダンナの仕事はコンピューター関連で大手から独立をはたし現在は会社を経営している。彼女は小学生時代、バレエをやっておりその愛くるしい姿と積極的でコケティッシュな性格で学年の女王的存在だった(神田うのが登場したとき、こりゃまさにM代のコピーか、と思った)。
短大在学中にちょっと芸能界に入りテレビに出ていたこともあったが、そのキャリアを辞め、OLになり、結婚→専業主婦という道を歩んできた女性だ。
社交的で、頭も才能もある女性がなぜ、家庭と子育てに埋没してしまうのか、という問いに関しては、一般的には雇用機会&状況不均等などが原因としてすぐに挙がるのだろう。しかし、彼女に関してはその図式は成立しなかった。彼女はキヤリアと結婚、子育ての両立ということをハナっから考えていなかったのである。
「だって、仕事は全然好きになれないし、仕事が生き甲斐や拠り所になるなんて私には全く考えられなかったもの」
美人で魅力的なのに野心がない。ほとんどの人間がこういう女性に好感を持つ。そんな女性が趣味感覚ではじめた料理の仕事がそのうちに評判をとって、今やカリスマ。と、これは女性の最強サクセスストーリーだ。まだまだ現役美人の彼女からは、「家庭と子育てに埋没」という専業主婦の後ろめたさと暗さは全く感じられない。
彼女の生活は子供中心に回っている。と書くと、すぐさまその後にもお受験、PTA問題、荒れる公立学校、束の間の不倫、挙句の果てにモンスターペアレントというダークサイドばかりがイメージされるが、彼女が話してくれた毎日のエピソードは案外と、いや、かなりの部分で充実して実に「オモシロイ」ものだった。
運動会、学芸会などの学校行事はもちろんのこと、クリスマス、ハロウィーン、ひな祭り、夏祭り、バーベキューなどなど、彼女が子供と参加するイベントは本当に多い。特に、ハロウィーンなどは、お母さんたちが子供の扮装を一カ月前から手縫いで作ったりして準備に充分なコストと時間をかける。お菓子を貰いに子供たちが化け物に扮装して家庭を回るという、まったく根拠のない欧米行事をよくまあ、臆面もなくやりおるわ!
とも思うが、ソニープラザで売っているジャック・オランタン(かぼちゃのお化け)の可愛いお面を見れば、それを使って遊んでみたくなるのが人情というものだ(ニッポンにはナマハゲがあるんじゃないか、と怒ったところで、ナマハゲのお面の奇怪なご面相はグローバルに広がるにはかなり問題がある)。
彼女たちが自主的に開いたライブハウスでのクリスマスパーティーでは、お母さんたちが全員コスプレでモーニング娘。を歌えば、お父さんたちはバンドを組んで、ディープ・パープルに燃えるという盛り上がりを見せたらしい。M代はその保護者グループのリーダー的存在だ。
そういえば、小学生だった頃、銭形平次のパロディー劇やゴールデンハーフのお色気歌謡というクラスの親睦会の出し物の演出家は常にM代だった。その時の企画の数々は、今思い出してもぞくぞくするような表現や遊びのよろこびに満ちあふれていたものだった。なんのことはない。彼女は未だにその歌ったり踊ったりの快楽を、子供をダシにして堂々、現役バリバリで続けているのである。
これは、考えてみれば凄いことだ。生活の中に芸能が生きているバリ島や沖縄の共同体は、私たちにとっては見果てぬ夢のユートピアだった。しかし、拝金主義はびこる現在のバビロン東京の子供を軸にした人間関係の中でその芸能ユートピアがさらりと実現されてしまっているのだから。
「先生も巻き込んじゃうわけよ。たとえば、運動会のお遊戯の曲とか、私たちの提案でみーんなSMAPの曲になっちゃった」
彼女は郷ひろみから始まって根っからのジャニーズファン。そんなわけで、SMAPやKinKidsの公演もまた、M代周辺のお母さんたちの課外活動に組み込まれている。同好の士数十人の子連れ団体が、そういった公演で“おっかけ”をするのだそう。従って、卒業式にみんなで歌う曲も「世界に一つだけの花」。男性アイドルを供給し続けてもはや三世代に渡るジャニーズは、すでに教育の現場における重要なコンテンツとして揺るぎない地位を確保しているのだ。
国民的人気番組『欽ちゃんの仮装大賞』の本質も、考えてみれば、子供をダシにして大人が本気で遊ぶ」発表会にほかならない。テレビ朝日らが主催する全国童謡歌唱コンクールのファミリー部門にしても、子供をダシに両親が熱くなるという行事である。
ハロウィーンで着せ替え人形になったり、イベントに駆り出され、仮装大賞の主人公にされる子供たち。子供をペット化している、といった批判の矢面に立たされるような行状である。しかし、その言葉もM代のこの一言の前には立場が弱い。
「お母さんが楽しいと、子供も楽しいのよ」。そう、昨今の少年刑事事件では、犯人の両親は「子供をダシに遊んでばっかりいる人」というのは皆無で、厳格だったり、どう考えても毎日が楽しくないだろう、というタイプが多い気がするし、M代のようにやることをやって、軸がズレていないなら時代がおのずと選択した王道のひとつなのだとも思う。
ちなみに、お受験ママやステージママも、「子供をダシに遊ぶ女」のはリエーションだということは間違いがない。「一生懸命頑張る子供のために家族が初めてひとつになった」という感動ストーリーは実行しやすく、ママやパパにこそ手応えがありそうだ。
それに制限が加わるかといって、専業主婦になったとたん女はガラリとそれまでの欲望生活を軌道修正できるのだろうか? という疑問は浮かんできて当然だ。それなのに、「女は母親になるとどんな人間でも子供のために、急速に大人に、まっとうになる」ということを、当の女性までが信じていたのである。「今は、こんなだけれど、お母さんも昔はやんちゃな若い女だったのよ」というようなストーリーが、
メディアのドラマや小説、マンガなどで繰り返され、一種の洗脳が効いていたからだと言える。しかし、現実の方はとっくにずれ始めていて、子供よりも自分、欲望のままに我が道を行く現役感たっぷりのお母さんも少なくなかったのに、みな、子育てに勝る女の満足は無いはずだ、という共同幻想の方を信じていたのだった。
そのメッキがどんどんはがれていったのがこの10年あまりだろう。少子化が深刻な数字となり「若い娘気分を卒業して、立派な母親にならなくてもいいからとにかく産んでくれ」という空気が流れるようになって、リアルなお母さん像がようやっと社会に認知され始めた。「ママが遊んで何が悪い?」「子供が子供を産んで何が悪い?」というリアリズム。
安室奈美恵が若くして子供を産んだときには、「ちゃんと子育て出来るのかしら」という世間の冷たい風がかろうじて存在していたが、現在、土屋アンナに至っては皆無。彼女は現役のヒップな不良少女であることを全く止めていない。
それと子育てが矛盾することはないし、世間も別に取り沙汰しない。ママが大人になるのを拒否しても、子供である既得権をパパが手放して急に大人になるわけがない。後に残ったのは、子供を永遠の遊び相手とするママとパパの毎日である。かくして、ピーターパンの願いは現実に全うされたのであった。
ただし、これ、子供にとっては男性、すなわちパパとママはこうなった以上、大人として子供の前に立ちはだかるということが難しそうだからだ。自分とは全く話もセンスもあわない他人とどうにか折り合いをつけて生きて行かなければならない、というのが大人の社会であり、子供は親とぶつかることからそれを習得する。
親が子供と同じ目線で遊び相手では、なかなかそういった場所をつくることができない。それならば、社会や学校の方が毅然と『大人として一本立ちするための指導』をしてくれればいいが、これも現状では期待することは出来ない。かくして、世の中は子供ばっかりの世界になるのだが、それでも時代は進んでいくのだ。
子供の遊びを、実はずーっと続けたい
遊びという行為には、年齢を重ねるに従って、飲酒、ギャンブル、色事とよく言われるところの飲む打つ買うの要素が加わる。しかし、それによって子供時分に親しんでいた“遊び”が忘れ去られるわけもない。
海に行けば泳いだり、浮かんだりして水に親しむ、山に行けば魚を釣ったり、川で泳ぐ。これらは人間にとって根源的で最もワクワクする遊びだろう。ところが、ニッポンではそういうことを無邪気に大人が楽しむ文化というものがない。無邪気に愉しんで良いのは若者集団かカップル止まり。釣りにしても、海や川の遊びにしても、すぐに趣味という枠に囲い込みが始まってしまい、窮屈この上ないのだ。
実際に何年か前、今でも付き合いのある40代の女友達五人で長瀞にラフティングをしに行ったことがある。五人それぞれがバリ島やアメリカンラフティングの経験があり、「チョー楽しいからみんなで行こう」ということになったのだが、果たして現実は心寒いものになった。他の一般参加の女性はみな彼氏に連れられてきている若い女ばかり。
インストラクターの男性も明らかに困惑顔である。「いやー、ババアが紛れ込んじゃってすいませんねぇ」と相手の不審(何の不審だ?)を打ち消すのに気を使うな~って。まだ、私たちの中に子供がふたりぐらいいたのなら、そのラフティングは「子供サービス」という大義名分がついたのだろうけど。
川べりの様子を観察すると、水に入って楽しんでいるのは、子供とパパばかりである。日常生活ではあんなに遊び好きのママがその遊びに入ってこないのは、やはり、無邪気な遊びを子供と男性にしか認めない、世間の目がまだまだ存在するからなのだろうか。
そういった多くの家庭サービスのママたちは、大騒ぎしてラフティングに興じ、絶壁からの高飛び込みに挑戦する40女たちを見て、完全に目をテンにしていたが、その視線の中に「ウラヤマシイ」光線が微妙に入り混じっているのを私は見逃さなかったよ!
しかしながら世間に対しておのれの欲望を通すことに関しては海千山千の五人組もさすがにコレに懲りて、以降、ラフティングには行っていない。
飲む打っ買う、そして、趣味の枠以外の“遊び”に参加するのには、まず子供ありき、という世間一般の空気は色濃い。前出の日本科学館という、元宇宙飛行士の毛利衛が館長の施設では先端科学のシミュレーションがゲーム感覚で出来る。ここでも、大人が何のストレスもなく、思いつきで遊ぶには、やはり子供連れ、という通行手形が必要なのだ。此処で私、人命救助ロボットのトライアルゲームを女ひとり子供に交じってやったことがあるのだが、相当に周囲の目はキツかった。
そう、ニッポンで今、子供がいないことの不都合さはこのあたりにある。バーベキュー、キャンプ、海、山遊び、アイスショーやサーカスなどのエンターテインメント、地域の祭り、などなど、これみんな子供をダシにしなければ大人が無邪気には楽しめない事柄なのだ。
恋愛もセックスもギャンブルも、大人の快楽特権が「実はそんなにオモロイものでもなかった」ということがバレバレになった今、最後に残った最大消費タームは、子供とともに子供の時間を取り戻す楽しさなのであった。
イビサという、大人の“子供返り”プロジェクト
子供という通行手形が無くても、そしてもちろん飲む打つ買うでもなく大人が子供と同じ様に心身共に没入できる“遊び場”は存在しないのか? といえば実は、私はそれを実行できる強力な場所と装置を知っている。
スペインは地中海の小島、イビサだ。貧乏の歴史が長く、遊びに何らかの理由をつけないと収まりが悪い日本と違って、遊びを快楽として純粋に楽しむことに肯定的な欧米にはそういったエンターテインメントの機会が多く用意されている。ヒッピー文化を引き継ぎ、アシッド革命、クラブカルチャーを経て、世界でも類を見ないクラブ、エンターテインメントリゾートとなったイビサ島だが、その名物のひとつに、ダンスフロアの天井からおびただしい泡が降ってくる“フォームパーティー”といものがある。これなんぞはまさに大人の中に眠っていた、子供の記憶体感が一気に掘り起こされる強力な“子ども返り”の装置なのだ。
アゲアゲのダンスミュージックでいやが上にもテンションが上がるクライマックスタイムに数秒で地上16センチにまで至る暴力的な泡が一斉噴射される。その時のほとんどパニック寸前のスリリングさと、泡まみれになってはしゃぐ肉体そして精神的開放感は相当なもので、彼の地ではイギリスからハメをはずしにやってきた熟年カップルも若者も、その“泡あそび”に大フィーバーなのだ。
私もその渦中に身を投じたが、楽しいのなのって! 雪合戦のエナジー、泥んこ遊びの体感、ツルツルヌルヌルする感覚にはちょっとセクシーなムードも入り混じるが、それもまた一興のみの大騒ぎは、大人になってからはまれな体験であり、日本のメディアがお約束のように喧伝する、ラグジュアリーなリゾート時間なんぞとは比べものにならないほどのおもしろさなのだ。
高度資本主義社会は管理とコントロールを不可欠とするが、そのストレスをヨーロッパは、こういったクラブリゾートを設けることで回避しているとも言える。
かれらのガス抜きは徹底しており、これはおのずと危険や暴力性をも内蔵する。先の“フォームパーティー”なんぞは本当に窒息すれすれだし、酒を飲んで滑って打ち所が悪ければすぐに死に至る場合もある。実際、それで死ぬ人もいるわけだが、それはあくまでも自己責任であり、店がやり玉に挙げられることはない。イビサ島の歌舞伎町とも言える、サン・アントニオのアニエス通りでは泥酔した若い女性がパンツ丸出しで道端に転がっており、急性アルコール中救援の救急車のサイレンが引きも切らない。
みっともない醜態を世間にさらしながらも、ガスを思いっきり抜いて日常生活にもどっていける社会と、その機会を全く与えられないまま、鬱病になったり、突然キレて刃物を振り回しかねない社会と、どっちが良いかと言えば、明らかに前者だと私は思う。
でも、こういったエンターテインメントは日本において実現はほぼ無理。危険に対する責任問題が莫大に大きいからだ。まあ、これを求めるには毎年イビザに行けばいいのだが、そんなことが出来る人はとっくに自立のストレスリダクションを実行しているわけで、悩みは深いのでした。
つづく
10章 バーター親孝行な女